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Update : Nov.04.1997

プリンス自動車の遍歴


プリンス自動車は、飛行機メーカーの立川飛行機から独立した電気自動車メーカーが前身である。 その略歴を以下に記す。

 

  1. 1945年8月、日本敗戦。 ガソリンが統制されている中、立川飛行機は米軍からの依頼でクルマの整備などを行うたかたわらで電気自動車の開発を行っていた。
     
  2. 1947年6月、立川飛行機が米軍に全面的に接収される事になったので、200名近くが『東京電気自動車』として独立。
     
  3. 1948年3月。 たまジュニアとたまセニアを発売。 直後に行われた通産省主催の電気自動車性能テストで“たま”が最も優秀であったが、需要に応えようにも「たま」には車の材料を買うための資金が不足していた。
     
  4. 1948年11月、役員会で援助を頼む相手としてブリヂストン会長の石橋正二郎の名が上がった。 石橋は、工場長の義父にあたる鈴木里一郎(画商)からよく絵を買っていたので、そのつてであった。 翌1949年1月、石橋が会長に、鈴木が社長に就任。
     
  5. 1949年11月、工場移転と共に『たま電気自動車』に改称。
     
  6. 1950年、朝鮮動乱。 米軍による軍需資材の買い占めによりバッテリー用の鉛の価格が8〜10倍に高騰。 同時に、統制されていたガソリンが放出されたため電気自動車は終焉を迎える(「たま」は朝鮮特需によるナパーム弾やミサイルで生計を立てることになる)。
     
  7. たま自動車(1951年11月に“電気”の文字を取った)』がガソリンエンジンの供給元として選んだのが『富士精密工業(1)』。 そして発売したのがプリンス・セダンとプリンス・トラック。 1952年11月に「たま」は『プリンス自動車工業(1)』に改名。
     
  8. 富士精密(1)」からエンジンを仕入れる事となった「たま 改め プリンス(1)」だが、「富士精密(1)」の株主である興業銀行は自動車に手を出す事に反対していた(※)。 そこで石橋正二郎は興業銀行から「富士精密(1)」の株式を買い取り、自らが会長におさまった。
    ※当時は、戦前からあるトヨタや日産でさえ上手く行っておらず、日銀総裁から大蔵大臣になった一万田尚人が「日本で自動車を作ることは無意味。アメリカから買えばよい」といった事を発言するような状況だった。
     
  9. プリンス(1)」「富士精密(1)」両社とも同じ石橋(ブリヂストン)系資本でありながら車体とエンジンを別々に作り続けるのも不自然なので、資本金の大きい「富士精密(1)」に吸収される形で新しい『富士精密工業(2)』が1952年11月に誕生。 また、販売力強化のため、合併の2ヶ月前に『プリンス自動車販売』を設立。
     
  10. 1961年2月、プリンス・スカイラインとプリンス・グロリアのイメージ定着に伴い、「富士精密(2)」から『プリンス自動車工業(2)』に改名。
     
  11. 1966年8月、通産省(※)などが進める業界再編により「プリンス」は「日産」に吸収合併される。
    ※当時、ブリヂストンの経営権を握っていた石橋正二郎(プリンス会長)より「本業に専念し、プリンスは手放したい」との意をうけた桜内通産大臣は合弁構想をトヨタに打診。 トヨタが検討の末に断ったので、次に日産に打診して合併となった。

社名に付けられている番号は便宜上のものです。
 
参考文献: 『戦後の日本車−1(二玄社 刊)』
『スカイライン伝説の誕生 / 桂木 洋二 著(グランプリ出版)』
『日刊工業新聞 1994.11.-1』
 
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